【日光例幣使街道】駕篭を揺すって袖の下をせびる日光社参例幣使の所業が「ゆすり」の語源!

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出入り商人たちが俄随員

例幣使行列の護衛と監察方は武家から出たが、随員は例幣使自身が選任する慣例になっていた。この点に例幣便行列の悲喜劇の弊害を生む原因があった。

例幣便の公家が誰某と決まると、その随員になろうという徒輩が自薦、他薦、どっと押しかけたといわれる。最も多いのが、その公家邸に出入りしている商人たちであった。

「俄家来」の約定ができ、供の人数が揃うのである。この連中が烏帽子、狩衣姿などで公家奉公人になりすまし、行列を組んで街道をねっていくといういい加減なものだから、以後の道中がどんなものになるか、想像がつこうというものである。

例幣使は毎年四月一日に京都を出立し、中山道を下ってきて、倉賀野から例幣使街道に入り、日光到着は四月十五日と決まっていた。

幕府は前述のように例幣使に対して大変な権威を与えていたため、沿道はこの行列の送迎には特に気をつかわなければならなかった。
一カ月も前から沿道の各宿場や村々では道路の補修や清掃を行い、それを藩や代官所の役人が何度も検分した。沿道の民家は軒先に洗濯物を干すことなどもってのほか、二階から行列を見るのは無礼として厳禁された。

二階の窓は雨戸を閉め、フシ穴は紙で目張りをすることが命じられる等、大変な気のつかいようであった。そして、いよいよ例幣使の行列が通るという当日は、宿場や村々の警備は厳重をきわめ、一時通行止めにしたほどである。

行列は「御幣長持」が中央に位置し、その前後を警衛の武士と御小人目付が護衛していた。
長持には、天皇が東照大権現の神前に捧げる四尺余(約一三○センチ)の金箔の御幣が入っている。
この長持のあとに勅使である公家(奉幣使)が乗った輿がつづく。
そのあと予備の輿、随員の駕篭、長持の列が進んだ。
これらの長持には、装束や式典に用いる諸道具、そして金儲けのための呉服類などの商品がぎっしり詰めこまれていた。

行列の先頭には、先触が立ち、した「下あに、下あにおろう」と声をかけながら進んだ。
「下あに、下あに」というかけ声は、将軍家、御三家、それに親藩のなかでも格別の家柄の大名に限られており、ふつうの大名行列は「片寄れえ、片寄れえ」と声をかけた。
これだけでも、例幣使の行列は、御三家に次ぐ格式の証明であった。

「強請(ゆすり)」の語源は例幣使

俄家来の随員たちは、自分が偉くなったような錯覚を起こし、しだいに横暴な振舞がめだつようになる。

「いささか疲労した。駕篭を所望」などと芝居がかった声で言い、駕篭に乗り込む。
中でわざと身体を動かしてゆさぶるので、担ぎ手は危なくて歩けたものではない。
駕篭を担いでいる人も閉口して、「お静かにお願い申します」と頼むが、聞こえぬふりをしてやめようとしない。

ついに担ぎ手が立ち往生してしまうと、駕篭の中から、「相談せぬか、相談せぬか。どうじゃ」と声がかかる。
つまり「袖の下」を出せばおとなしく乗ってやろうというわけである。

時代考証で著名な三田村鳶魚(えんぎょ)は「強請」(おどしたり、無理難題を吹っかけて金品をまきあげる)という言葉は、例幣使行列のこうした所業が語源だといっている。

さらにわざと駕篭からころげ落ち、脅して金をまきあげる手合であった。
このころげ落ちを一般に「例幣使の駕篭落ち」と呼んだが、当の公家や随員の間では、「パタル」といっていたという。「パタリと落チル」の略語らしい。