【日光例幣使街道】駕篭を揺すって袖の下をせびる日光社参例幣使の所業が「ゆすり」の語源!

スポンサーリンク

街道は排気ガスの彼方へ

このようなユスリやパタルは、中山道でも行われたが、倉賀野から例幣使街道に入ると急にその回数がふえたといわれている。

この街道は、宿場や村々は「行列ずれ」しておらず、人びとは純朴でユスリ、パタルはしやすかったのであろう。

例幣使街道というと倉賀野から日光までと考えられやすいが、正確には、倉賀野の次の玉村が最初の宿で、そのあと五料、芝、木崎、太やぎやなだてんみよう田、八木、梁田、天明、犬伏、富田、栃木、合戦場、金崎までの十三宿、二十三里一町である。金崎宿以北は壬生街道になる。

現在では、この道路も全線アスファルトで舗装され、例幣使の昔を偲ばせる風情はほとんど残っていない。
ただ、倉賀野の中山道との分岐点には、道しるべと常夜燈が立っていて、わずかに当時の〃痕跡″を伝えている。

例幣使街道(現在は国道三五四号線)に入って玉村宿に向かい東進を開始すると、やがて眺望がひらけ、左背後に榛名山、左手に赤城山の雄大な裾野が視界に入ってくる。

例幣使街道がすでに遠い過去のものになりつつあることは、街道北部の合戦場宿や金崎宿でも実感した。
合戦場宿には、地元で「本陣」と呼んでいる場所が残っている。
東武鉄道日光線合戦場駅の東約二○○メートルの街道東側である。
本陣の建物はとっくにこわされ、子孫の秋山家の近代的な住宅になっている。

わざと駕龍から落ちて脅す

例幣使の昔にもどる。行列がこの街道に入ると、一行の悪どい所業は一段と激化したが、パタル場所が決まっていたという話である。

随員だけでなく、勅使である公家自身もなかなかのものであった。宿場宿場で土地の名主、豪農、富裕な商人などを呼びつけ、

「入魂じゃ」といって金をせびった。
入魂は昵懇で〝心やすい″という意味がある。
「この身分の高い麿が心やすくしているのであるから、ありがたく思って金を出せ」というせびり方である。

当時、例幣使街道の沿道では、ユスリ、パタル、握らせる、といった相互の馴れ合い行為を「泥懇」といい、掴ませる賄賂を「明懇金」と呼んでいた。

沿道の各宿場や村々では、ユスられ、パタられるのは例年のことなので、それに要する晩懇金をちゃんと予算化していた。
そして助郷の人たちが任務に就く前、あらかじめ一人一分(四分の一両)くらいの「ユスられ・パタられ料」を前渡ししていたところが多かったという。
一分といえば一千文、巨額である。宿場や村にとって、大きな負担であったに違いない。

公家の金儲けはまだあった。
彼が食べ残した飯を干して乾燥させ、それを菊の紋章入りの紙にうやうやしく包み、万病に卓効があるといって売ったのである。

残飯どころか、公家の入浴した残り湯も売ったといわれる。
これも病気のとき飲めば治ると信じられた。
大腸菌やその他の物質が混じっている残り湯を、庶民は争って買い、大事に扱った。
残飯や残り湯が売れたのは、この国の大衆の間に根強くある皇室や公家など貴種に対する尊敬や憧慣によるものであろう。

この当時、「例幣使に近づいておくと、庖槍にかからない。感染しても軽くすむ」と真面目に信じられていた。

また「近づかなくても、輿や駕篭の下をくぐるだけでも霊験がある」といわれ、夜間、本陣の乗物置場に忍び込む者があとを絶たなかった。

nikkou3

大名も泣かされた例幣使

例幣使の行列は、こんな旅をつづけながら四月十五日、日光に到着する。
二日後の十七日の例大祭で、厳粛な祭礼が最高潮にもりあがったところで、大事に運んできた御幣が神前に捧げられた。

例大祭が無事終了すると、例幣使一行はいったん江戸に出、こんどは東海道を道中して京都にもどった。
日光から江戸に出るさい、前年納めた古い御幣を持ってゆく。
これがまた、金儲けのタネになった。
古い御幣をこまかくきざみ、そのきれはしを各大名の江戸藩邸に届けて回るのである。

大名側は、神君家康公の神前に供えられていた御幣のきれはしとあっては粗略には扱えない。
ありがたく頂戴におよび、応分の金子を包んでお礼として差し出すことになる。

例幣使一行には、大名や旗本たちも泣かされたのである。
当時、大名も庶民も、例幣使のことをひそかに「公家悪」「へばり虫」「小判喰虫」などと呼んで嫌悪し、軽蔑していた。

例幣使一行はどこでも嫌われたが、何といっても一番被害を受けたのは、彼らの通った沿道、特に例幣使街道沿いに住む上野・下野両国の庶民たちであった。

いばられ、ユスられ、パタられ、賑懇金をせびられ、さらに規定の何倍もの飲食や賛沢をされたのである。

幕府としては、朝廷や公家を冷遇しているという負目から、公家やその随員の所業を見て見ぬふりをしていたようである。

例幣使街道の歴史というものは、幕府の対朝廷政策による皇室や公家の貧窮から生じ、それをなかば「黙認」したことでエスカレートし、被害はすべて庶民、特に例幣使街道沿いの人たちにシワ寄せされていったのである。

※上記の内容は1997年(平成9年)時の「歴史と旅増刊号 古街道を旅する」を参考に一部抜粋しています。
現在とは状況が異なると思いますので、実際に歩かれる方は、充分に下調べをしてください。
そして歩きながら、その変化を楽しんでください。

テキストのコピーはできません。