極限の山エベレストの世界、松浦輝夫さん。心が血が伝わってきた、登山家 植村直己と結んだロープ

エベレスト
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チーム登山で一番大事なのは自己犠牲の精神

冒険家・植村直己が冬期のマッキンリー(米・アラスカ州)で亡くなって30年がたつ。1970年、日本人初のエベレスト登頂の快挙は、この植村と松浦輝夫さん(80)のコンビだった。

松浦さんは大阪市内の自宅で話してくれた。所有する賃貸住宅に居を構えるが「ハイム8848」はエベレストの標高。もう1棟ある「ハイムK2」も世界で初めてマナスルに登頂した今西寿雄(今西組元社長)さんに依頼した建物だという。エントランスには、植村の極北からの絵はがきなどが飾ってあった。

「植村君が亡くなって本当に残念です。青少年に与えた影響はものすごいと思います」

エベレスト登頂の5年前に二人はネパールのカトマンズで出会った。

「ネパールと中国・チベット自治区にまたがるローツェ・シャールに私が早大隊で挑む時に、植村の明大隊はゴジュンバ・カンの遠征でした。宿舎が一緒で麦わら帽子に草履みたいのを履いてヒョコヒョコ歩いてきました。植村が『早大の人ですか。明治来てますか』と聞くので『ああ、来てる来てる』と答えた。それが初めての出会いです」。植村は松浦さんの7歳後輩だった。

この時、松浦さんの早大隊は、7000メートルで滑落した仲間の隊員を背負って下ろすために500メートルを15日間かけて極限の中で決死の下降、再アタックしたが登頂は果たせなかった。

「新聞が1紙だけ、名誉ある撤退と書いてくれたところがあって本当にありがたかった」

二人が登頂したエベレストでも崩落でシェルパ一人と隊員が心臓まひで亡くなった。

「ベースキャンプで大塚(博美)登はん隊長が『第一次攻撃隊は松浦と植村』とおっしゃった時、全身に血が駆け上がったように感じてストーブの前で手がヤケドしそうになっているのも気がつきませんでした」

「ローツェ・シャールで失敗しており絶対に登らなければいけない。植村君に、最終ランナーの責任でゴールを切らないとアカンと言ったんです」

8500メートルでの最終キャンプ。「ナイフがあれば自分の胸を切り開きたい衝動にかられました。酸素を吸って吐いた息が水滴となって凍る。息ができず30分ごとに目が覚める。朝方うとうとしてふと気がつくともう5時を回っていた。植村は、もう起きていて、お湯を沸かしていてくれました。明大の山岳部はよく訓練されていましたね」

「ロープでお互いを結んだ時、ロープを通して相手の気持ちや血がこっちに伝わる感覚があるんです。少し頂上が見える南峰の難所で、どんなことがあっても頂上に登ろう。植村が歩けなくなったら岩にくくり付けるぞ。僕は一人でも行く。反対に僕が歩けなくなったら岩にくくりつけてくれ。よし、植村、行くぞ。先に行け、と声をかけたとき、本当に血が流れてきた感じがしましたね」

ヒマラヤで学んだのは仲間を思いやる気持ち

頂上直下、あと10メートルのところで植村がさかんに手招きする。

「僕はNHKから預かった映像カメラと電池をベルトに巻いていた。これがすごく重い。撮影のため植村に万歳しろという指示をした。でも彼はちゃうちゃうと手を振るんです」

「何かあったのかと思ったら、そうではなく『松浦さん、先に頂上へ登って下さい』と言うんです。息もできない極限でこんなうれしいことを言ってくれる。先輩を思う気持ちですね。頂上に立ち二人で抱き合った。涙がブアーッと出ました」

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「頂上に一時間。当時は私たち二人だけ。何も聞こえない静寂の世界。亡くなった成田潔思隊員の頭髪と写真を埋めた。植村も交通事故で亡くなった山岳部同期生の写真を埋めていた」

「記念の石を四つほど入れていると、植村の方は手当たり次第に石をザックに放り込んでいる。下り出したら傾斜がきつい。危なくなって、植村に石を減らせと言ったんです。そしたら植村が『松浦さん、頂上の石は2度と取りに来られません』と言う。『それよりNHKのカメラ放りましょう。頂上で撮影したあとにフィルムを入れ替えようとしたら手元が狂ってチベット側へ落ちたということにしましょうよ。僕がちゃんと言いますから』。三百数十万円のカメラだというが、私も分かった。それも一つの方法だな」と。

好調な二人は一気に6500メートルまで下りた。「持ち帰った石は翌日、頂上の石と書いて隊員の皆さんにお渡しした」。岩陰に置いてきたカメラも翌日の第二次隊により無事回収された。

「このあと81年にK2に挑む早大隊を率いて実際に動けなくなった隊員を岩にくくり付けて成し遂げるということがあった。頂上に立った大谷映芳隊員は無線機で『松浦さんのおかげです』と言ったあと、全隊員の名前を呼び上げて感謝した」

「昔の登山はラグビーのワンフォーオール、オールフォーワンと一緒で一回の遠征でだれか一人でも登れば目的は達成された。最近はチームを組むことがすごく嫌がられる。今は一日に何百人もエベレストに登る時代。植村の奥さんの公子さんからの手紙で『最近エベレストに近道ができたんですか』と書かれてました」。隔世の感がある。

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作陶の収入を寄付。ヒマラヤへの恩返し

1991年から10年間、松浦さんは屋久島に単身移住した。木材加工販売会社を軌道に乗せて息子に後を託し「好きなことをやる」と決意。作陶三昧の充実の10年を過ごした。

「興味はあったけど全然やったこともない」。本を見ながら「土をねったり焼いたり、登り窯も自分で作りました」。島の婦人会や学校の生徒も作陶に加わった。ランの栽培も行い「洋ランと器展」を開く。旅行者は松浦さんのうわさを聞き陶芸作品を購入した。

講演料のほか、この作陶で得た800万円を竹中工務店の有志が造ったネパールの学校(ブッダ・プライマリー・アンド・セカンダリースクール)に寄付、給食費や先生の援助に役立てた。ヒマラヤへの恩返しは今も続く。

初登頂の栄誉は人生に輝かしい航跡も残したが、同時に「ものすごく気が重かったんです。特に植村君がいなくなって僕一人ですから」。初登頂から30年の2000年、最後の窯を焚(た)き、当時の仲間に感謝の気持ちを込めて花瓶60個を作った。送り終えて屋久島を離れた。

●まつうら・てるお
1934年大阪市生まれ。早大卒。1970年、日本山岳会エベレスト登山隊に参加、植村直己とともに5月11日、日本人で初めてエベレスト(8848メートル)に登頂した。65年ローツェ・シャール(8383メートル)に早大隊で挑んだが途中断念。81年にK2(8611メートル)に早大隊隊長として挑み成功させた

※参考 2014/11/22 日本経済新聞

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