2012年5月にダウラギリに登頂し、17年かけて全8000メートル峰14座の完全登頂を達成した。
しかし2007年には、10座目となるガッシャブルムIIで雪崩に遭い奇跡的に救出されています。
そんな竹内さんの旅にいつも同行している山の道具達があります。
新聞の記事でそんな厳しい環境で、一緒に旅した道具への想いを語られていましたので、ご紹介いたします。
頂上までの距離 じりじりと! 8000メートル峰14座完全登頂記念の高度計付き腕時計
家のがらくたの中にあった懐中時計を分解して遊んでいた小さい頃から時計に興味があった。小学校の入学祝いとして祖父と叔母からプレゼントされたのが、スヌーピーのゼンマイ式腕時計だった。
腕にしている時計は14座完全登頂を記念した限定発売の「14座サミッターモデル」で、このプロトモデルはダウラギリで実際に使い、開発者と山仲間の中島健郎君と私の3個しかない。山の道具で私のブランドという特別なものはないが、私が使いやすいように改良してもらったり自分で改造したりしたものはある。この時計もその一つである。
スヌーピーを原点として私にとって、今腕にしている時計は、極限の超高所で使うものとしては最も進化している時計だといえる。
一般に高度計の付いた時計はデジタルがほとんど。登山は頂上までの階段を決まった段数を上るわけではなく、傾斜や体力は常に変化する。という意味で頂上まではすごくアナログな世界で、その標高を私はデジタルではなくアナログで表示できないかと考えた。針の位置によってあとどれくらい残っているかを分量で見ようという試みだ。
超高所の非常に苦痛な状況の中で、標高と時間を別の読み方で表示していたら、そこで頭の中を切り替えなければならない。
私は短針、長針、秒針と読むと、何千何百何十メートルと読めるように、9000メートルで切って時計と同じように読めるように統一した。
頂上まであとどれくらいあるのかとか、分量を感じようとした時にアナログ表示は面白い。ダウラギリでも頻繁に高度計を見た。
短針がじりじり8を指した時に8000メートルを超えているんだという思いで登っている。デジタルだと7800メートル過ぎで残りを8000メートルから引き算で計算する。
iPadなどすべてデジタルの塊のように見えるが、ページをめくるような動作は表現方法がすごくアナログ的である。
零戦などパイロットたちは、思考力が減退、頭がボーッとして計器を読めない時にいかに読もうかとすごく工夫した。この時計を作るために古い飛行機の高度計を買い集めた。
どんな表現方法をして、どういうふうに針を使っているのか。計器の色分けなどを調べて見て感心する。長い歴史を持つ航空機はよく考え抜かれている。
山を登りながらもこうした妄想に近い空想を頭の中で繰り広げている。
手の延長、体の能力高めるピッケルとアックス
ピッケルはアックスと、アイゼンはクランポンというように山の道具も素材の進化と用途とともに呼称が変わりつつある。
木のピッケルは1970年代製だ。初めてピッケルを使った際に知人から借りたのと同じピッケルを後で探し求めたものだ。当時、木のピッケルはすでに引退時期にあり、お店にはメタルシャフトのものが並んでいた。
ウッドシャフトのピッケルはフランス・シャモニーのシモン製スーパーDで、このほかスーパーEという小さいタイプがある。小柄な冒険家の植村直己さんはこのEタイプを使っていた。
ウッドピッケルの古いものはほとんど一点もので、ピッケル鍛冶がトンカチで打ったもので、次第に興味を持つようになって戦前のものなども集め、家には30本ほどになった。
当時のものと比べても形はほとんど変わらない。素材が木と鍛造というだけで、最初に作られたものがいかに完成度が高いものだったか。やがてシャフトが曲げられる。素材が進化することで使う側の要求を満たしていく。
チタンアックスは国産の「ミゾー」ブランドで「彗星」の名が付いている。これは世界中の山を登りながら放浪し、日本のアイスクライミングを進化させた溝渕三郎さんという人のほぼ手作り。
私が自分の使いやすいようにハンマータイプの「流星」をアックスタイプに長さなど特注で作り直してもらったものだ。ひそかに“タケウチ・スペシャル”と名付けている。シャフトは航空機の燃料パイプを使い、私のヒマラヤ登山には完成品といってよいものだ。
最近は氷、雪専用と細分化している。それでは何本も持っていかなければならない。
チタンのこのアックスはとても軽い。これでは氷に刺さらず、はじかれてしまう。しかし、ヒマラヤは氷の場所もあるが、工夫して越えれば次の局面が出てくる。そういう意味でこの彗星は1本で何でもこなせ、汎用性が高い。
私にとってアックスは手の延長。両手に持つことで自分の体の能力が高まる。両爪先の山との接点にはクランポンがある。手と足に爪をはやすようなものだ。
古いものの魅力は永遠に続く。小型ガソリンストーブ「ホエーブス」
高校の山岳部は団体装備で個人のものは必要ない。
大学2年の時に自分で買った「ホエーブス」という山で使う小型ガソリンストーブは、いまだに捨てずに取ってある。このNo.725は、やや容量が小さく「小ブス」の愛称がある。
山では、これで「ジフィーズ」というドライフードを食べた。鍋にザーッと入れて水を加えて煮ながらかき回す。
牛丼とか天丼とかドライカレーとか、おいしそうな写真が貼ってある。そういうにおいがするおじやのようなものが出来上がる。
ところが、食べると全部同じ味がするという不思議な食べ物だった。
大学はコーヒーを沸かして飲む余裕のある登山ではなかった。合宿だから、ひたすら登る。60キロくらい背負って歩くこともあったが、私がいた山岳部は、当時の他大学の山岳部に比べれば緩いこときわまりない。
しごきもなかったし、ほかの大学では1年生が荷物を持たせられるのに、うちは先輩も後輩も入れてジャンケンで決めていたほどだ。
ホエーブスは、オーストリアの金物製作所が製作したもので、1992年を最後に70年以上も作られ続けた。
その後、愛知県の金物屋が引き継いで作ったがそれも今はない。コレクターがいるほどで、初期モデルからそろえている人もいる。
遡れば缶の色違いや四角いのもあった。私は「硬い物」が好きで、機械的な物が好きだから、しょっちゅう壊れたのを、分解、掃除してまた組み上げた。
修理すればするほど調子がよくなるこの小ブスに何ともいえぬ愛着を感じていたのだ。
こうした中に歯車が入っているイメージが好きで、たまにほかの古いものと並べて眺めている。昔のものはデザイン性が高くて面白い。
新しいものは古くなっていくだけだが、古いものの魅力は消えない。
できれば一度火をつけてみたいのだが、今となってはちょっとおっかない。パッキンがへたっているし、異常加圧しないようにエスケープバルブが入っているがそれもどうかと思う。
一般的な登山では、軽いガスボンベのストーブが主流になり、液体燃料のストーブは、長期の冬山登山に入る者以外では、あまり使われなくなった。
衝撃的だった山の中でパーティーの思い出はスパークリングワインのコルク
2001年のナンガパルパット(8125メートル)登頂が私にとって転機の登山となった。
10人ばかりの国際公募隊へ参加した。
そこでオーガナイザーのドイツ人で、以後、ヒマラヤ挑戦の主なパートナーとなるラルフ・ドゥイモビッツと出会った。夫人のオーストリア人ガリンダ・カールセンブラウナーと共に、後に14座登頂を果たしている。
それまでは私も大学や日本山岳会など大がかりな組織登山で、補給や退路を確保しながら大量の物資を荷揚げするやり方だった。
ラルフらとの登山は、少人数、小規模で一気に頂上に向かうコンパクトでスピード重視のスタイルに変わる。
印象的だったのは、ベースキャンプでのサクセスパーティーでラルフがお祝いのスパークリングワインを抜いた光景だった。それはヨーロッパとの文化の違いを見せつけられたような、正直、衝撃的なシーンであった。
日本の登山隊ではそんな余裕などない。朝ご飯も立ち食い状態で、すぐ荷揚げに行くとか、帰ってきた者から食べて次の仕事に向かうのが当たり前だ。
ラルフの国際公募隊では、まさにテーブルクロスがかけられ、スタッフが食事をサーブする。休みの日はダンスパーティー、誕生日にはバースデーパーティー。
それは今まで経験もしたこともない世界だった。ヨーロッパでは当たり前かもしれないが、私にとっては完全に違う世界に紛れ込んだというほかない。
ご馳走(ちそう)を作ってベースキャンプ中が集まって山の中でスパークリングワインを抜いているあの光景は忘れられない。
ラルフに記念にその抜いたコルクをぜひ頂きたいと申し出た。
ドイツの、そのスパークリングワインはおいしかったが、残念なことに金属性のコップであった。
私は14座目のダウラギリ登頂を祝うため、ベースキャンプにヴーヴ・クリコのシャンパンとシャンパングラスを持参した。
ヴーヴ・クリコは、かつて山登りに興味を持っていたモナコ公国のグレース・ケリー王妃が、ヨーロッパの著名クライマーを集めて晩さん会を催した時に振る舞ったことがあるそうだ。
ある料理人に教えてもらったのだが、私もそれをまねてみたのである。
サイボーグのような気分、気に入った手術で埋め込んだシャフト
造形的にも格好良く、何しろ美しいと思った。これは私の体に1年以上も入っていたものだ。
2007年7月、10座目となるガッシャブルムII(8035メートル)で雪崩に遭い、腰椎破裂骨折、肋骨も5本折れ、左肺もつぶれた。奇跡的に助けられたが、同行者2人が亡くなった。
腰椎の3番目の骨が大きく壊れてしまったので、下の2番目と上の4番目の骨を上下から支えて力が加わらないようにしたのが、この長さ5センチのネジできたチタンとバナジウム合金のシャフトである。
3番目の骨の右側が粉砕しており、ネジが打てなかった。そこでネジ穴を5つとシャフト用の穴2つの、計7つの穴だけ開けて行う手術は当時、東京医科歯科大でないとできなかったといわれる。
翌年、腰椎を支えるこのシャフトを埋め込んだまま、ガッシャブルムIIの頂上に立ち、続いて快晴の11座目のブロードピーク(8051メートル)も登った。
術後は痛かったが、リハビリの途中でシャフトが入っている痛みはどんどん無くなり、自分の体と一体化していった。私は、これが入っていることをとても気に入っていた。こうして体の中に金属部品が組み込まれることで、自分がサイボーグ化された気がしたのである。
ブロードピークから帰って抜く手術の後、また痛みが始まって後悔した。「入れておけばよかった」と。
このシャフトを見なくても事故のことは常に頭の中にあるが、これを飾っておきたくなってアクリル板を買って穴を開ける専用のドリルも購入した。日本製はよくできている。
色合い、形といい工芸品のようだ。チタンは電気触媒で紫とか青など色をつけられる。
手術の前に先生に「どんなものか、見せてください」とお願いすると「いま手元にない」と断られた。再手術後、「これ要りますか」と言うので「ぜひ下さい」とビニール袋を受け取った。
よくこんなのが体に入っていたなとさすがに驚いた。先生も「ハイ、こんなでっかいのを入れたでしょう。だから手術前に見せたくなかったんですよ」。
※たけうち・ひろたか 1971年、東京生まれ。プロ登山家。ICI石井スポーツ所属。立正大客員教授。立正大で山岳部に所属。昨年5月にダウラギリに登頂し17年かけて全8000メートル峰14座の完全登頂を達成した。2007年に10座目となるガッシャブルムIIで雪崩に遭い奇跡的に救出された。
※2013年4月 日本経済新聞の連載記事より