日本人ではじめてのエベレスト登頂や、アマゾン川のいかだ下り、単独北極点犬ぞり到達など、山岳に限らず様々な挑戦を続けてきた世界的冒険家の植村直己。
マッキンリーで消息を絶ってから、30年が経過してもなお、その偉業を称える声は多い。
21世紀を前にした1999年に発行された「OUTDOOR」に掲載された記事を見つけ、懐かしく読んでみました。
4万円の所持金と夢だけで米国に渡った青年、植村直己
1964年5月、大学を卒業したばかりの23歳だった植村直己は片道切符を手に、移民船「アルゼンチナ丸」でアメリカに旅立った。
理由は、明大山岳部時代に興味を持ち、G・レビュファの『星と嵐』を読んであこがれた、ヨーロッパ・アルプスに登るための資金を、経済水準の高いアメリカでまずは稼ごうという単純なものであった。
この写真は、そのとき彼が最初に取得したパスポートである。
使いこまれた革表紙をめくると、まだあどけない学生服姿の顔写真、さまざまな国のビザ、出入国スタンプなどが目に入る。
そして最後のページには出国の際の所持金欄があり、そこには110ドルと記されている。
当時のレートで4万円弱の金額で、これが出発時の全財産であった。
これは当時はもちろんのこと現在でも、普通の人にとってみれば無謀とも思える旅だといわざるを得ない。
言うまでもなく植村直己は、数々の困難な旅を続けてきた世界的な冒険家である。
しかし、現金110ドルとアメリカまでの片道切符、そして小さな英語の豆タンだけを携えたこの最初の旅立ちこそ、彼にとって最も大きな冒険のひとつであり、その後の活動の原点となったといってもよいのではないだろうか。
当然、彼はさまざまな困難に遭遇する。
アメリカでは不法就労による国外退去を命じられ、フランスではひどい黄症にかかり入院を余儀なくされた。
しかし彼はそれらの障壁をことごとく乗り越えて放浪の山旅を続けたのだ。
彼には、思いついたことを即実行に移しそれを挫折することなくやり遂げる、行動力と意思力、つまり冒険家としての基本的な資質と呼べるものが備わっていたのだろう。
それだけではない。彼が初の著書『青春を山に賭けて』のなかで「単独登山とは、たしかに自分ひとりでやるものであるが、周囲のたくさんの人々の協力をあおがなければ絶対にできないことだ」と語っているように、彼は出会った多くの人々に好感を抱かれ、惜しみない協力を受けた。
これも彼の性格の一端を如実に物語っているといえる。
こうして彼はこのパスポートで行なった最初の4年半の旅で、モンブラン、キリマンジャロ、アコンカグアと三大陸の最高峰の単独登頂をはじめ、ゴジュンバ・カン初登頂、アマゾン河6000kmのいかだ下りなど、充実した体験を重ね、その後の偉大な冒険へとつなげたのだった。
犬ゾリによる南極大陸3000kmの踏破と最高峰ビンソン・マシフ登頂の
夢を残したまま、43歳の誕生日でもあった1984年2月12日、植村直己は
初のマッキンリー冬季単独登頂を果たし、その後消息を絶った。
しかし、彼のあの奥に秘められた不屈の闘志を隠すような優しい目と少年のような人懐こい笑顔を、彼を知るすべての人々はけっして忘れることはないだろう。
(1999年発行 OUTDOOR 1月号より転載)
●植村直己
1941年、兵庫県日高町に生まれる。明治大学山岳部所属。卒業後世界の山を歩く。’70年、世界初の五大陸最高峰登頂者となる。その後北極圏に舞台を移し、単独北極点到達、グリーンランド縦断(いずれも世界初)などの冒険を展開占、84年2月、冬季のマッキンリー登頂後消息を絶つ。