本物志向で原野(アウトドア)を楽しんだ日本人「芦澤一洋」

私にとって芦澤一洋氏と聞くと真っ先に目に浮かぶのが、コリン・フレッチャー著の「遊歩大全」の翻訳者であり、日本のフライフィッシングの開拓者というイメージだ。

昔の日本ではアウトドアといえば、バーベキューだった。
その幼稚な先入観を払拭し、アメリカの本場のアウトドア文化を広く伝えた立役者でもある。
※以下は1999年に発行されたOUTDOOR誌より転載。

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原野とは何を意味するのか?

「原野って何なのだ。私は難問にぶつかったようです。
天然自然、あるいは荒野、これは分かる感じがするのです。
しかし、英語のウィルダネス、それに相当すると思われる〝原野〟となると、一転してすべてが霧のなかに隠れてしまうのでした。
(中略)やがて私は気がつきました。
原野は、身のまわりの何処にでも存在すると」
(『原野を楽しむ』冬樹社)

芦澤一洋の名刺の片隅に、小さく「アウトドア・ライター」と肩書きが刷りこまれたのは1972年のころだ。

34歳になっていた。大胆な。出版社を辞め、来るもの拒まずどんな原稿でも書きよす態勢で雑文業を始めて3年目のぼくは、まずアウトドア二本で文章商売になるのかどうかを心配した。
よろず書きますでも、なんとかカツカツなのに。

しかも、将来的にはグラフィック・デザインの仕事から手を引きたい、といったようなことをサラリと言い放つのである。

確かにその3年前からぼくたちは、彼の釣行の金魚の糞となってフライフィッシングの手ほどきを受けていたから、会話の端々に自然との融合とか生命とか生態とかの言葉を見つけてはいたけれど、本業をなげうってまでのアウトドア・ライターというのが理解できなかった。

1960年、といえば安保の年であるが、この年、早稲田を出た芦澤はフリーのグラフィックデザイナーとなる。

写真雑誌のレイアウトなどを学生のころからやっていたというが、知り合ったのは東京オリンピックの翌年の65年。
ぼくが入社した出版社で複数の雑誌のグラフィック・デザインを一手に引き受けていた。

すいっと自分の机に納まると50~80ページのレイアウトをサラサラサラと完了、「できたよ」の声を残すと、すいっといなくなるのであった。まことに仕事が速かった。

これほどのプロがなにゆえアウトドアライターになぞ。
だいたいこのカタカナ名称をどれほどの人が埋解するか。
キャンプに抜群、強風に消えないライターと思われるのがオチだ、といらぬ心配までした。
そんなことよりいつものようにワーツと釣りに行こうよ、そんな気分だった。

出版社勤務までは雑誌のページ・デザインを依頼する側される側の関係でしかなかったが、フリー同士となった69年からは深いつきあいとなり、釣り入門と相なるのである。
周囲に集まっていたエディター、デザイナー、フォトグラファt、イラストレーター連中もすぐに影響され、芦澤一洋釣り学校が毎週末開校される始末だった。

カタカナ職業の頭文字E・D・P・Iを並べ替え、パイドハイパー(まだらの笛吹き)ならぬ 「PIED WAN.DEREPなるクラブ名をわれらが釣り学校に与えると、この無理のある和訳「よこしまな放浪者」をえらく気に入ってくれたものだ。

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しかしご本人は、それから12牛後の81年、〝よこしま〟ではない「JFF(ジャパンフライフィッシング協会)」を、佐藤盛男氏、室田賢一氏とともに設立するのであるけれど。

ともかく、釣り学校の、教えることをさっぱり聞かない恋童どもを正しい道へ導きつつ、海外の釣り事情調査、毛バリ釣り師訪問へと向かい、人と自然との共生を説く伝道師の役割などを進んで引き受けることになるのだ。

年譜・全著作を一瞥するとさらによくわかるけれど、危惧する必要がないほど、アウトドア・ライターの仕事を一気に爆発させるのである。

「自然の中に融合し、生命の仕組みと生態を知り、そこから自然の中に生存するに値する生物の一員としての人間をとらえなおそう」

(『バックパッキング入門』山と渓谷社)などと初めのころはまじめさゆえ、大仰な言い方がちょっと多かった。
それでずいぶん求道的な人だと思われたようだ。

しかし、冒頭に引用したように、身の回りのどこにでも〝原野″が存在するということで、衣食住のさまざまについて自分好みを語り、伝えているところが、アウトドア本をただのアウトドア本にしないところだった。

故郷山梨の鰍沢の夏、収穫の終わった麦のわら束を胸に抱きながら、近くの川を一気に流れ下った芦澤少年の、その船酔いのような夢見心地は、96年の9月まで続いたのである。
原野を楽しんだ「道楽男」というのが正しいのではなかろうか。

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