立山曼荼羅に描かれた壮大な構想、時代の流れに転変しながらも、なお、脈々と息づく宗教世界の源は、朝鮮半島にまでいきつくのか。
山と日本人
山岳信仰とは、山に神仏が宿るとみる考え方で、日本においては古代以来、修験道として独自の展開をとげた。
山岳信仰は、豊作祈願という農耕神的性格と死者の霊魂が篭もるという祖霊神的性格を併せもっている。
稲作の豊穣をもたらす水は、その源流となる山から流れ出すため、水分の神として農民の信仰を集めた。また、死者の霊魂は高い山に篭もって子孫を見守るとされ、恐山のイタコにみられるように、霊山に登拝すると死者に再会できると信じられて、祖霊神としても信仰を集めた。
さて、修験道の開祖は役行者(役小角)とされ、密教と結び付いて発展し、天台宗の本山が比叡山に、真言宗の本山が高野山に置かれたことも、山岳信仰との関連が大きい。
中世には、天台宗の本山派、真言宗の当山派という修験道の二大流派が成立して、各地の霊山の山伏が組織化されはじめた。
近世に入ると、街道の整備などもあって、長距離の旅行が可能になり、庶民の社寺参詣や霊山登拝の旅が活発になっていく。
霊山の山麓で宿坊を営む山伏は、冬場に平野の村々を巡回し、加持祈祷などを行ないながら山岳信仰を広め、夏場には宿坊に参詣者を泊めて、かつ自ら山先達として登山の案内にあたった。
しかし、神仏習合の典型であった修験道は、明治維新の神仏分離政策によって禁止され、神社か寺院かの二者択一を迫られて、壊滅的な打撃を受けた霊山も数多い。
その後は、近代西欧思想導入によって、信仰登山はスポーツ登山に姿を変えていくことになった。
それにともない、信仰登山ではタブーであった女人禁制は解除され、もっぱら山先達の案内によっていた夏山登山は、一年中かつ自由に登山できる形になった。
現在でも、「お山開き」とか「夏山開き」と呼ばれる行事が行なわれているのは、かつて信仰登山の時代に、夏季の「お山開き」から「お山終い」までの期間しか登山を許されなかったなごりである。
北アルプスの霊山・立山
信仰の山・立山は、富山県中新川郡立山町に位置し、飛騨山脈(北アルプス)の北西部に連なる一群の山々をいう。とくに、雄山(3003m)、別山(2880m)、浄土山(2831m)を立山三山と称し、中・近世には出羽三山、加賀白山、秩父三峰山、木曽御岳、、戸隠山、伯耆大山、英彦山などと並んで修験道の霊山として栄えた。
著名な霊山は、高峰というよりはむしろ、平野から眺望できる独立峰が多く、立山も北アルプスの一部ではあるが、その西北部に位置するため、富山平野から眺望できるし、高峰にもかかわらず里に近いため、比較的登りやすい霊山であった。
立山は『今昔物語集』でも、立山地獄に堕ちた娘の話が登場するなど、古代から霊山として広く知られていた。
荒れ川として知られる常願寺川をさかのぼると、その谷口に岩船明寺、渓谷をたどると芦峅寺のふたつの宗教集落があり、羽衣は縦山山項に雄山神社の奥宮が、芦峅寺と岩峅寺に雄山神社の黒宮が鎮座する。
これらの宗教集落には、かつて数十軒の宿坊が存在し、立山に登るベースとしての役割を果たしていた。
「立山量茶羅」の世界
立山の信仰世界を描いた絵画は「立山曼荼羅」と呼ばれており、現存するものは50点近くに及んでいる。しかも、その内容がそれぞれ微妙に異なる面を有しているため、近年は、山岳信仰をビジュアルな形で具現した資料として注目を集めている。
この量茶羅は、江戸時代に立山信仰を布教するため作成されたといわれ、芦峅寺と岩峅寺の人びとが日本各地で布教活動をした際、この図で「絵解き」したとされる。
この絵解きの内容は、開山縁起・地獄と浄土・登山案内・芦峅寺布橋潅項から成り立っていた。以下では、それらを個々に説明していこう。
立山の開山縁起は奈良時代に越中国司であった佐伯有若と有頼父子の話として伝えられる。有若の嫡男・有輔が、父が溺愛していた白鷹を追いかけて立山山麓に至ると熊が出現し、その熊を山中の室堂の玉殿岩屋に追いつめたところ、熊は阿弥陀如来の化身であった。
その阿弥陀如来を麓に安置して祀ったのが、立山信仰のはじまりであるというストーリーである。
佐伯有頼が熊に矢を射たり、玉殿岩屋で阿弥陀如来の前にひざまずく姿などの開山縁起の主要場面が、立山曼荼羅の中に描き込まれている。
凄惨な立山地獄の描写に圧倒
立山曼荼羅をひと目見た瞬間に圧倒されるのは、凄惨な立山地獄の描写であろう。
高原パスの終点の室堂から下ると、亜硫駿ガスの噴煙が立ち込める地獄谷の風景が眼下に広がる。
この有毒ガスは飛ぶ烏をも落とすほどで、ガスによる遭難者も少なくない。
この草木一本生えない地獄谷の風景を、案内の山伏の説明を介して、かつての信仰登山者は地獄の世界と認識したのであろう。
立山曼荼羅の画面の左上部には、地獄で苦しむ亡者の群れや鬼の姿、閲魔大玉、血の池などが所狭しと描かれ、頭上には地獄の針の山と認識されていた剱岳がそびえ立つ。
剱岳は、地獄のシンボルゆえ、かつては登山がタブーとされていたことを、作家の新田次郎が『剱岳・点の記』のなかで書き記している。一方、立山曼荼羅の画面右上には、阿弥陀三尊や聖衆の来迎、天女の飛ぶ姿が描かれ、地獄のすぐそばに極楽浄土が存在することを示している。
霊山登拝は十界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏)修行であるとされるが、立山曼荼羅には、地獄と浄土のみならず、これらの十界の姿が描き込まれており、飢えに苦しむ餓鬼や獣の化身となった畜生の姿、戦い続ける修練の場面などを見ることができる。今も、登山道が登り日の一合日から十合日にあたる山項まで区分されている例をよくみるが、これも十界修行のなごりといわれる。
なお、この十界の世界を表現した絵画とし1て、近世初期に作成された熊野観心十界図がある。熊野比丘尼が絵解きした図といわれるが、その描写内容は、立山曼荼羅の地獄の場面へと引き写された可能性が考えられる。
立山絵図にみる神仏分離
立山曼荼羅に加えて、立山信仰の世界を描いた絵画がもうひとつ存在する。それは木版刷の絵図である。これらの絵図は、近世から近年に至るまで数十種類が作成された。ここでは明治維新の神仏分離の前後の絵図を比較することによって、立山信仰がどのように変化したかを探ってみよう。
これらの絵図は、山伏たちが冬場に各地へ布教の際、お札代わりとして持参したり、夏山登拝に際しては案内図として活用され、さらには越中富山の薬売りとして著名な富山売薬業者のおみやげとしても使われたという。
まず、江戸時代後期のものと考えられる「越中国立山禅定並略御縁起名所附図」を見ると、描写内容は立山曼荼羅に類似しているが、その構図は横長の立山曼荼羅に対して縦長になっており、実際の山地地形の展開に近いものとなっている。
また、地獄谷の表現は火炎をいくつか描くにとどまっており、浄土山の左上には阿弥陀三尊の御来迎も描かれるものの、地獄と浄土の表現は立山曼荼羅に比べると大きく後退しており、山案内図としての側面が強調されるスタイルとなっている。
なお、画面の左端には「尾州春日井郡琵琶鴫東六軒町 施主鍛冶屋六右街門」と記されており、この絵図の版木を寄進した人物が、愛知県出身であることがわかる。この付近は芦峅寺(あしくらじ)の宿坊が布教活動を重点的に行なっていた地域であり、近年になって、名山屋市内の旧家から複数の立山曼荼羅の所在が確認されている。
さて、次に明治13年の立山講社刊『立山案内図』と比較してみよう。この絵図では、神仏分離の結果として、仏教色が画面から一掃された姿をうかがうことができる。たとえば、岩峅寺境内には前立社棺が、芦峅寺境内には大宮と祈願政、山頂には雄山神社が描かれ、布橋などには「旧」の文字が付されている。
さらに、地獄谷は旧の字が付されるとともに「火吹谷」と改名され、同様に称名滝もまた「清浄ケ瀧」と改名されており、仏教的な地名がことごとく改変されている。もっとも、現在その多くは旧名に復している。これらの比較から、神仏分離が山岳信仰に与えた影響は、非常に大きいものであったことがわかる。
立山信仰と女人禁制
日本各地の霊山と比較すれば、立山の山岳信仰の特徴は、男性の山岳登拝のみならず、女人救済儀礼としての布僑潅境が秋の彼岸の中日に行なわれていたことであろう。この儀礼は明治の神仏分離以降は途絶えていたが、先年、富山県で国民文化祭が開かれたおりに、百余年ぶりに復活が試みられた。
ひとくちに女人禁制といっても、実はは多様性が存在し、英彦山のように九州における地方修験の本山でありながら、女人禁制が存在せず、山頂まで女性が菅井できた山もあれば、富士山のように、幕末期は六十年に一度だけ女性の登拝を許した山もあった。
さらに注目されるのは、出羽三山のひとつである羽黒山で、山頂のご本社(現在は三神合祭殿と呼ばれている)には通年の参詣が可能であり、女性も参詣が認められていた(円山と湯殿山は夏山のみで女人禁制であった)。
しかも、羽黒山の参道の入り口にあたる仁王門をくぐってすぐの祓川(はらいがわ)を渡る槍のモ刑に閻魔堂が、対岸には姥堂が存在したという構造は、立山芦峅寺の布橋潅項とまったく同様であり、国宝に指定されている五重膳のすぐ脇にあった血の池に血盆経を納める女人救済儀礼が存在したことが、近世の絵図や旅日記から知られる。この羽黒山における女人救済儀礼は、立山芦碑寺の布橋潅項が伝播した可能性もうかがえ、たいへん興味深い。
立山の自然は、人びとの心を癒してくれる「気」を出す場所
日本では、ここしばらく風水ブームが続いているが、お隣の朝鮮半島では、山岳信仰と風水が密接に結び付いてきた。民族の母なる山である白頭山が半島の付け根に位置し、そこから発する風水の気脈が、半島の南端に近い智異山まで流れ下る。この気脈は日本海を越えて、白山(白頭山とほぼ同じ標高)や立山にまで伝わっているのかもしれない。
というのは、李氏朝鮮時代に皇帝の玉座の背後に飾られた「日月五岳図」は、なんと立山曼荼羅の背景の構図にうりふたつなのである。これらの絵画の相互関連は、いまだ充分に解明されてはいないが、日本の山岳信仰のルーツは朝鮮半島にあることが、白山や英彦山などとの関連から明らかにされつつある。
立山でも、登山者の増加から自然保護の必要性が強調されて久しい。この時期に、風水思想が環境問題に寄与するとの見解を、日韓の地埋学者が同時に指摘していることは示唆的である。風水思想は、欧米の人間中心的な環境観とは異なる東洋的な「環境アセスメント」ともいえ、自然と人間の秩序を調和させようとする思想であるから、自然保護運動の思想的な基盤になりうる。立山の自然は、人びとの心を癒してくれる「気」を出す場所であるから、その環境が守られるべきであるのは、当然といえよう。
※この記事は雑誌 山と渓谷の10年ぐらい前のものを参考に記載されたものです。記事がかかれた当時と現在では異なる内容がありますのでご注意ください。