修験道では山は生命エネルギーとふれあう場所。
日本人の魂の原形がそこにある。
立山の美しい山並みが背後に控える、立山町の芦峅寺集落。かつては立山信仰の布教の拠点となった土地である。この町に、立山信仰の原点に立ち戻ろうと、修験復興の活動を始めたひとりの若者がいる。
立山信仰のふるさと芦峅寺
白装束に身を包んだ佐伯史麿さん(33歳)の姿は、まるで立山曼荼羅からぬけ出してきたようだった。清浄をあらわす真っ白ないでたち、ビンと伸びた背筋、きりりと唇を結んだ表情、そのたたずまいが、厳しい修行に向かった修験者たちを彷彿させる。
「最初はこの姿で山を歩くことすら気恥ずかしかったんですよ。でも、自分が修行をしなければ何もわからないし、宿坊だって開くことはできません。ようやく最近、町の人も認めてくれるようになりましたけどね」
佐伯さんは、立山を開いた佐伯有頼の直系の子孫と伝えられる家に生まれた。「大仙坊」というかつての宿坊は、佐伯さんの父親で五十代目とのこと。現在、父親の令麿(のりまろ)さんは芦峅寺雄山神社の宮司を務め、次男である史麿さんは権祢宜(ごんねぎ)という神職だ。
神社と宿坊の混在は不思議だが、そこは神仏混淆(しんぶつこんこう)の立山信仰を抜きに語ることはできない。声臓寺は立山開山伝説の地。かつては「大仙坊」のほかにも40近い宿坊が軒を連ね、全国から訪れる参拝客でにぎわった。
しかし、明治維新の神仏分離令、廃仏毀釈運動で、仏教的な色の濃かった宗教施設は取り払われ、立山信仰は神社が受け継ぐことになったのだ。
そんな歴史を経てきた芦峅寺(あしくらじ)に、佐伯さんは立山開山1300年の今年、数十年ぶりに宿坊を復活させたのである。
宿坊を復活させようと思った動機
ぼくは雄山神杜の家に生まれたといっても、大学はキリスト教の同志社に行きましたし(笑)、卒業後は地元のテレビ局に数年勤めました。
まあ、次男だから何をやっても大目に見られていたんですが、会社員時代は自分のやりたいことをしているとは思えなかった。
そんなとき体調を崩して人生を見つめ直し、「会社を辞めて、民宿をしよう」と思い立ったんです。母親が民宿をしている姿を小さいころから見ていたこともあって…。
宿坊ではなく、民宿がやりたかった
今から5、6年ほど前ですが、「終身雇用はこれから崩れるし、企業もどんどんつぶれる時代になるだろう」と思いました。サラリーマンにとっては受難の時代ですよね。
そういう人たちがホッとひと休みできるような場所をつくりたかった。いきなり民宿はとても無埋だろうから、喫茶店から始めよう、なんて思っていたんですよ(笑)。
今の時代に、多くの人がもつ夢として
ぼくとしては、人の笑顔と直接ふれあう仕
事がしたい、最初はそれだけでした。ただ、芦峅でやりたかったですね。京邦や東京の大学に行きましたが、最終的に戻るのは芦峅だと小さなころから決めていました。
会社を辞めるときは家族に大反対されたんですが、父親に「どうしても辞めるのなら高等神職の資格を取ってほしい」と言われ、自分のワガママで辞めるのだし、少しは親の言うことも聞こうと思って、國學院大學に入りました。
そこで学んでいくうちに、「修験道」に出会ったんです。そして、立山が修験道の大霊場であり、芦峅寺は宿坊の町だったと思い至ったとき、どうせ民宿をするなら「宿坊」にしたい、と考えが広がっていきました。
神道の考え方と仏教の手法
宿坊を開く。この明確な夢をもってから、佐伯さんは吉野や出羽三山の宿坊を泊まり歩いた。-そして宿坊への理解を深めると同時に、修験道を学ぶ。学ぶうちに話や本だけでは飽き足らず、修行したくなった。
思い立ったらとことん探求する行動派なのだ。出羽三山で修験道の修行を行なっていると聞いてすぐに申し込み、その後も高野山や吉野など、名だたる修験の山で修行を重ねた。
修験道について
ぼく自身「大仙坊」という家に生まれたにもかかわらず、修行を始めるまでは修験道をよく知らなかったんです。
しかし、うちは神祉といっても、本家の祭壇では仏式のお供えものをしますし、祝詞を上げてから般若心経や観音経を唱えることもあります。神仏混淆の修験道の様式は色濃く残っていました。
日本では「八百万の神」というように、自然のなかにたくさんの神さまがおられる、と考えますよね。そして、日々ほこりのようなものが損もっていくのを「お祓い」するという思想が神道です。
あまり理論などは発達していないのですが、それは日本が豊かな自然の恵みの国だからです。
それに比べて仏教は、暑く苦しい土地で生まれた宗教のため、そこから抜け出す「解脱」の思想がある。解脱には「仏とひとつになる」という考えが根本にあって、その方法として座禅や瞑想法が見出されていきました。
修験道は、自然のなかに神々が宿るという考え方は神道的で、自然とひとつになるための修行の手法が仏教的。つまり、仏教と神道を切り離すことはできないのです。
だから修験道は、自然の厳しい山のなかで発展した
古来日本では、「山は神さまのおられるところだから、登ってはいけない」と考えられていました。しかし仏教が入ってきてからは、「修行を積んだものなら登っていい」と変化していきました。そして山に入った修行者たちは、神仏の不思議な力をいただいて山を下りてきます。
修験道や密教では、自分ひとりが悟りを開くのではなく、みんなを幸せにしなければいけないという宿命をおぴています。そのため里に下りてきた修行者たちは、周りの人にお祓いや加持祈祷をし、「山に連れていってくれ」という人がいれば連れていきました。
こうして芦峅寺のように、山のふもとのギリギリ人が住める土地には、修行者による宿坊の集落が生まれていったのです。
各地の山で修行を行なった体験
山がもつ巨大な生命のエネルギー。滝が落ちるエネルギー。石のもつ重力のエネルギー。修行では、さまざまなエネルギーの渦巻いている場所に入っていき、それらと自分を一体化しようとします。
山のなかを4、5日かけて歩き続けたり、断食のようなことをしたり。肉体的にはとてもつらいのですが、そのなかで美しい朝日を見たり、水の澄んだ流れにふれたり、ふっと涼やかな風が通りぬけたりする一瞬一瞬が、とても大きく感じられます。
まだまだ学んでいる途中ですが、最近やっとわかってきたことがあるんですよ。
物質というのは正まっているように見えますが、中性子のレベルで見ると必ず波動があるのだという話を耳にしました。そして自分にももちろん波動がありますよね。
その波動同士を共鳴させていけば、山のエネルギーとひとつになれるのではないか。自分も元気になっていくのではないかな。そんな気がしているんです。
自然との対話は神との対話
宿坊「静寂庵」では、立山信仰の話や立山曇茶羅の絵解きも行なっている。
民宿やホテルでは決して知ることのできない立山の話は、宿泊客のみならず、地元富山県からの日帰り客にも好評だ。
修行を行なう同志や、立山の山小屋で応援してくれる親戚や友人、たくさんの仲間を得て、佐伯さんの夢は着々と実現している。
修験道複輿のために、行っていること
芦峅寺雄山神社経由で修験道の儀式「柴燈護摩」を行ないました。また、復興のシンボルとして「立山地蔵蛛」を作り雷鳥沢ヒュッテに運びました。
かつて立山には多くの石仏が寄進されていたのですが、明治維新の廃仏毀釈によって、捨てられたり風雪で壊れたりしたものがたくさんあるんです。
山小屋に地蔵尊を置くこしそ、立山が信仰の山だということを登山者の皆さんに感じてもらえればと。
立山での修行
立山は山がけわしすぎて、江戸時代の中ごろに宿坊のものによる本格的な山での修行は途絶えているんですよ。低い山なら道に迷っても野宿でやり過ごせますが、この山では死んでしまう。
しかし立山にも、かつて修験者が歩き、神仏を祀ってある場所がたくさんあって、ぼく白身はそういうコースを3年前から歩いています。
各地で学んできた修行のやり方を基に、そこで拝んだりお勤めをしたりします。そうすると、その場にある自然の霊気と一体化でき、エネルギーをいただける。とても安心し、落ちついた気持ちを得られます。
修験道というのは、私たちだれもが自然のなかで感じる気持ちが、根本にある
山に入ればすぐに実感できますよ。「風が気持ちいい」とか「朝日が清々しい」と思うこと自体が、神さまとの対話だし、「すばらしい」と思う気持ちが、神さま仏さまなんです。信仰ってそんなことの積み重ねではないでしょうか。日本人ならだれもがもっている自然への畏敬の念。それが修験道に通じている。日本人の魂の原形だと思います。
現代は、精神的に頼るものがないと生きづらい時代です。でも、苦しいとき、つらいときに頼れる存在をもつと安心して祈ることもできます。ぼくにとって立山は、遠くにいても思い出すだけで心が情れ晴れするところ。このエネルギーと安らぎを、みんなにも味わってもらいたいと思う場所なのです。
※この記事は雑誌 山と渓谷の10年ぐらい前のものを参考に記載されたものです。記事がかかれた当時と現在では異なる内容がありますのでご注意ください。