60代男性の登山経験談より~~~。
50年ほど前の夏のことです。当時中学2年生だった私は、兄(20歳)、兄の友人(男23歳、女21歳)の4人で穂高連峰に登りました。
1日目、河童橋を同時ごろ出発。横尾を過ぎて雨、が降り始め、本谷橋のあたりでは雷雨・・・・
女性と中学生連れで穂高の中級コースヘ。ゴール間近に至って時間切れのビパーク
私たちは、雷雨のために2時間近く動けませんでした。
18時過ぎに潤沢に着きましたが、私は体力の消耗が激しく、下痢をしてしまって眠れる状態ではありません。
固形燃料はすべて燃やしてしまい、暖をとるために持参のウイスキーまでハンカチに染み込ませて燃やしたことを覚えています。
女性だけが寝袋を持っていたので、私はそれに潜り込ませてもらって、ようやく熟睡することができました。
翌日は快晴でした。7時に出発して奥穂をめざし、昼前には登頂しました。
下山は吊尾根から重太郎新道を下りましたが、落石がひどくて登りよりも時聞がかかるほどでした。
岳沢のあたりで暗くなり始め、歩いているのは私たちだけになってしまいました。
そのうち水筒、が空になったので、水音のする方向へ下りて行って水場を探しましたが、案の定、迷って元の道にもどれなくなりました。
暗くなったのでピパークすることに決め、河原の石の上にテントを敷いて寝ました。
翌朝、明るくなってみると、日日ほどのすぐ近くに登山道があることがわかり、登山者の話し声が聞こえてきました。
半分照れくさきもあり、何食わぬ顔をして登山道にもどり、上高地へ下山しました。
山では「日時以降は移動するな」という教えを守らなかったのが、遭難寸前に至った原因だと反省していますし、体力のむだな消耗を防いだために遭難しなくてすんだと思っています。
(茨城県古河市Cさん〔男・60代〕)
1960年ごろ、戦後の登山ブームで、みんなが登山を楽しみ始めたころ
テントは布製、火器は缶入り固形燃料、雨具と呼べるものは「折りたたみ式のコウモリ」のみ、懐中電灯などの照明器具もなかった。
よい雨具はないので、雨が降ればぬれるのはあたりまえだった。
ちなみに、Cさんが履いていたのはお父さんの軍靴で、滑って歩きにくかったそうである。
お兄さんをリーダーに、中学生と女性、が加わった、ちょっと危なっかしいパーティは、初日の雨で子ども(Cさん)がダウン寸前。潤沢から奥穂1前穂と越える行程も、子どもや女性には厳しかったか、現在と比較すると5割増しほどの時聞がかかっている。
岳沢の下まで来てついに時間切れに。全体的にやや背伸びした、厳しすぎる計画だったのではないだろうか。
4人は若かったので、数々の苦労を乗り越えて無事に上高地に下山できた。
強烈で充実した体験は、中学生のCきんを山のとりこにしてしまった。遭難さえ避けられれば、山で苦労したこともよい思い出になる。
遭難事故寸前から学ぶ登山の教訓
①弱者に合わせたコースを選ぶ。
②余裕のある行動計画にする(特に2日目の行程は、初級者には厳しいのでは)。
③装備の工夫~雨具、ヘッドランプ、寝具、火器など(時代背景も考慮する必要はあるが)。
④燃料、水筒の計画的な運用。
⑤歩行技術やベース配分の見直し。
(参照:山と渓谷)