モンベルの創業者である辰野氏は、商人の町として歴史がある大阪府堺市に8人兄弟の末っ子として生まれました。
実家はすし屋を営んでいて、物心がついたころから両親が働いている姿を間近に見て育ったそうです。
辰野氏はそんな両親を見ながら、自分もやりたいことを仕事にしたいと考えるようになりました。
しかし、今では想像もつきませんが、もともとは体が弱かったという。それが今やアクティブなアウトドアスポーツを支えるメーカーの創業者です。
この相反するイメージが、どの時点で変化していったのか? 何かきっかけがあったのでしょうか?
1冊の本との出合いが人生を変える。
辰野氏の子どもの頃は体が弱く、小学生の時はハイキングにすら連れて行ってもらえなかったとか。
しかし、気は優しくて力持ちというイメージの山男への憧れは、人一倍強かった。
辰野氏は自然の少ない商店街育ちでしたので、田舎への願望もありました。
そして中学生になると体が人並みに強くなり、友人と近くにある里山の金剛山によく登りにいきました。
高校1年の国語の授業で、オーストリアの登山家、ハインリッヒ・ハラーが書いた「白い蜘蛛」という1冊の本と出合います。
「死の壁」と呼ばれたスイスのアイガー北壁の初登坂に成功した、ハラーの詳細な記録を夢中になって読んだそうです。
16歳の時にこの本の舞台となったアイガー北壁へ「日本人として初めて登りたい」と決心し、本格的にクライミングを始めます。
そして28歳で独立して、山に関連するビジネスを起こすことを目標にしたという。
夢を追う社会人として自分の道を貫く
高校卒業後は大学に進学せず、名古屋のスポーツ用品店に就職。
休日には岩登りに出かけて技術を磨き、アイガーに登るための人生の最短ルートを目指したそうです。
高校は普通科でしたが、辰野氏は思います「私はハラーと出合って人生が決まっている」と。
当時の大学は学生運動が真っ盛り。
ここで4年間過ごすのは時間がもったいないと考え、高校3年生の時に、名古屋のスポーツ用品店に住み込んで働くことを周囲に内緒で決めていました。
ある日のこと。辰野氏は親には「信州大学を受験しに行く」と嘘をつき、友人と2人で冬の西穂高岳に登りに行きます。
そして日焼けした顔で山から戻り、父親に「入学試験がうまくいかなかったから就職していいか」と相談すると、すんなりその希望を認めてくれたそうです。
辰野氏の父親は、戦前に満州に出かけて、色々な事業をしていた人で、世界に目を向けていたので、子どもが大学に行かないことは、特に驚くべきことではなかったようです。
そして名古屋のスポーツ用品店に就職した辰野氏は販売員として、早朝から夜遅くまで働きました。
どんなに疲れていようと、週1回の休日には、鈴鹿にある御在所岳に岩登りに出かけたという辰野氏。
目標とするアイガーは岩の固まりのため、ロッククライミングの技術が必要だったからです。
ただ当時は登山学校がなく、すべて自己流で試行錯誤しながら学ばなければいけなかったとか。
例えば壁面から落ちた時に備えて、岩場に打ち込んだハーケンにカラビナをかけ、体を結んだロープを通して安全確保できるよう自分で工夫をしたそうです。
使用した道具は運動具店で埃をかぶっていたロープを買ってきて、アマニ油でほぐすなどして、ほとんど自作したそうです。
ところがある日、勤務先の社長から「岩登りは危ないから行くな」と命令されます。
辰野氏は、到底こんな命令を受け入れることはできません。
結局1年で大阪に戻り、登山用具の専門店に再就職しました。
アイガー制覇への道のり
大阪に戻り、登山用具の専門店に再就職。
この専門店で、パートナーとなる中谷三次氏と出会います。
そして21歳の時に、念願のアイガー北壁に挑戦します。
アイガーは標高3970メートルとアルプスでは特に高い山ではありませんが、北壁は1800メートルの垂直の壁です。
例えるなら現在、東京にあるスカイツリー3本分を下から登るわけです。
だから、とても困難であるがゆえに命を落としたクライマーも多くいます。
辰野氏が登頂した時は世界最年少でしたが、日本人では2組目でした。
1組目の1人は、登はんの途中に滑落して亡くなっていました。
当時は、現在ほど市販の道具が十分にありません。
ハーネスや登はん具、アイスアックスなどは辰野氏の自作です。
自宅の畳にハーケンを打ち込んで、水平を垂直に見たたて、落ちたらこういうふうにロープが動くとか何度もシミュレーションを重ねたそうです。
アイガーに向けて出発した1969年は、日本人の海外渡航の解禁から5年後でした。
大卒の初任給が月3万円台の時代に、欧州への航空券代は往復で50万円かかります。
旅費を節約するため、横浜からロシアのナホトカまで3日間船に乗り、シベリア鉄道で2週間かけてウィーンに向かいました。
スイスの山麓の村に着いてからは、旅費の節約にと宿の替わりにわら小屋を借りました。
これが意外と暖かいそうです。
その場所で大西洋と大陸の高気圧がまとまって、1本の帯になるのを待ちました。
なぜかというと、帯状の高気圧ができると1週間好天が続くからです。
そしていよいよ7月21日に、登頂アタック敢行。
上手く行けば当時の世界最短で、登はんに成功します。
さらに現地で40日間待ち、ようやく高気圧が1本になりました。
待っている間、「今回の登はんで自分の人生は終わるかもしれない」といった恐怖に襲われたそうです。
そんなネガティブな気持ちに負けそうになりながらも、それを押し切って21日未明に出発、辰野氏はヘッドランプの明かりを頼りに北壁を目指しました。
そして、岩に手をかけた瞬間に、不思議と死への恐怖は消えていたそうです。
パートナーの中谷さんと辰野氏をロープで結び、片方がロープを確保している間にもう片方が登ります。
夢のきっかけとなったハラーの「白い蜘蛛(くも)」とは、壁の上にへばりついている氷壁の意味です。
結果的に雪崩の巣で、ハラーは雪崩に遭い、あわや遭難する危機に直面します。
辰野氏の挑戦時も中谷さんが雪崩を受け、引きはがされないように必死に壁にしがみついました。
そして落石でロープが半分以上切れていました。
辰野氏は「もう山登りをやめよう、暖かいフランスのニースに寄っておいしいものを食べて帰ろう」、そんなことばかり考えて登っていたそうです。
ところがやっとの思いで頂上にたどり着き、マッターホルンの美しい山並みが目の前に広がると気持ちが変わりました。
アルプス三大北壁の2つ目を前に次はあれだと。
当時は、1シーズンに1つの壁に登るのが精いっぱいというのが常識で、アイガーに登ったら日本に帰るつもりだったとか。
しかし、2人は結局フランスのツェルマットに向かい、マッターホルンの北壁も登りました。
下山後はコップすら持てないくらい消耗していましたが、この経験が大きな喜びと自信になりました。
【アイガー北壁】
アイガー北壁は、ドイツ語で北壁を意味する「Nordwand」の頭文字を変えて「Mordwand(死の壁)」とも呼ばれています。
登山家の間では、グランドジョラス北壁、マッターホルン北壁と並び、登頂が困難な世界3大北壁の1つとして数えられています。
岩壁の高さは1800メートル、頂上の標高は3970メートルで、最もスタンダードなヘックマイヤー・ルートでさえも国際基準で2番目に難しい「超難関2(Extremement Difficile2)」に定められているという。
夏は落石のリスクがあるため、成功した登攀の95%は冬に行われています。
だいたい秋になり雪が固まって、気温も下がり安定した頃に登山家たちが姿を見せるようになるそうです。
また、登攀中に休憩したり、何かあった時に避難したり、来た道を戻ることができないので、登山家として相当な体力と精神力が求められる山です。
そして、アイガー北壁の一番の魅力は『舞台性』だという。
なぜなら、下のグリンデルワルトの集落から、双眼鏡で登攀中の登山家の姿を眺めることができるからです。
逆にその『舞台』に上がっている登山家たちは、登っている最中に電車が通る音や、グリンデルワルトの牧草地にいる牛のカウベルを聞くことができます。
※辰野勇(たつの・いさむ)1966年大阪府立和泉高校卒。高校時代に読んだ本に感銘を受けて登山家を志す。69年に当時世界最年少でアイガー北壁の登はんに成功。登山用品店などを経て、75年モンベル設立。大阪府出身。
※参考/日本経済新聞