巨樹みる自然崇拝と人間の本質について・・・

巨樹を目の前にしたとき、巡る想いは人それぞれ。
古代から私たちが巨樹に接する際には、大きく分けて二つの想いがあるという。
一つは「巨樹そのものを信仰の対象とする」もので、巨樹そのものの生命や履歴を考えるもの。
もうひとつは、沖縄の御岳信仰のように「巨樹がつくり出す空間そのものを、ひとつの世界として崇め信仰していく」というもの。

日本各地にある鎮守の森信仰も、古代からの信仰が現代まで続いているケースが多々見られます。

森の聖者

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巨樹の母性

巨樹がもつ母性の物語は、ロシアや北欧など世界各地の民族で伝えられてきた慣習に見られます。

「悲しいとき、巨樹を抱きしめ、元気をもらいなさい」
「特定の巨樹と向かい合い、巨樹にくるまれたような感じになりなさい」

いずれも巨樹に対して、人がそんな接し方をすることで、血液が私たちの体を流れるように樹液が幹から枝、葉っぱに流れ、エネルギーが木そのものから溢れ出すイメージを感じ取り、私たちにも巨樹の体内にある生命力が伝わると考えました。

時間をかけながら、そんなふうに樹とコミュニケーションしていくことは、情報化時代の人工都市に生きる私たちにはとても大切なことではないかと考えています。

巨樹と信仰

巨樹と信仰

九州英彦山や信州戸隠山など、日本全国にある霊山にも巨樹信仰があります。
信者達は、山岳登攀の苦難も乗り越え、それぞれの願望成就を達成すべく山の頂上を目指します。

あなたにも経験があるだろうか?
山に登ると、日常生活圏の環境とは異なる、豊かな自然に包まれた世界に入っていくことで敬虔な気持ちなったこと。

山の深い森は、巨樹や巨岩のある異質な空間。
私たちの祖先は、俗界のしがらみから離れた心境で、また明治維新までは歓待してくれる山人の心情にふれ、気持ちが豊かになって心身に力を取り戻したものです。

このように巨樹がある深い森には、癒しの力が存在してます。
それを期待し、念じながら幾度も近づき、関わっていこうとしてきたのが人間です。

現在でも一部の山域には残っていますが、かつて霊山といえば、女人禁制でした。
その理由のひとつに、修験道の思想が挙げられます。

修験道では、「山岳を聖なる母胎」とみなし、その胎内である山中において修行し、即身即仏の修験者
に再生していくという思想があります。
そして、多くの人々を迷いから解放し悟りを開かせていくこと、それが入山するもの達の目指すところでした。

女人禁制思想の意味は、母なる胎内に入っていくのだから、俗人の女性たちとは決別しなければならなかったということが考えられます。

 

文明存続のシンボルとして巨樹を考える

マザーツリー

本来、自然は、原生林の中であらゆる生命種と共生し、バランスのとれた大きな生態系をつくり出しています。
ブナもワタスゲもカタクリも生きていて、多様な種が生存し、お互いが補完しながら利益を交換し合っています。

しかし、都市に暮らす私たちはこの地球という環境に生存しながら居候的に、自然にはほとんど無関心で、普段の社会生活をしています。

森にたたずむ巨樹はじっと動かず、おもねることもせず、座して私たち社会の一連の活動を見守っています。森の中の主として、ただ静かに時を刻んでいるのです。

時には、人間界の都合によって、巨樹たちが伐られることもあります。
動けないから人間に反乱を起こすことはできないし、抗議することも命乞いすることもできない。
ただ、自らの状況をそのまま受け入れて、無抵抗主義の聖人のような寛大さで、あらゆる状況に耐えて生き延びていく。

現在、巨樹が置かれている状況について、注目しなければならないこと

巨樹の森を歩く

それは、植物界で急激な環境変化があったとき、真先にやられる「命」が巨樹だということ。

なぜなら森が破綻するときは、高木がまずだめになります。
長寿であるほど、また古い時代の機能しかもたないものほど、大幅な環境変化に即応できるメカニズムを体内に有していないのです。

地球上の三五億年の生物界の歴史が物語っているように、生態系は多様で複雑なシステムでできています。
植物界全体としては、なんとか生き延びていくことができても、老齢の木々たちには過酷な状況に耐えることができない。。

そして巨樹が生育できなくなった土地には、長年経てば、私たちもまた生息できなくなる可能性が高
いということを知って欲しい。

私たちの生活環境を、巨樹はセンサーとして将来を占ってくれているのです。

それゆえ、哲学者が言うように、「巨樹が健全であるのなら、その環境社会はまだ安泰だ」ともいえるという。

つまり、巨樹も育ててきた社会、巨樹を中心として生き延びてきた町や村が無事だったからこそ、その巨樹が無事だったといえるかもしれないということ。

巨樹のある世界は、自然の営みが持続する場所

芦生の森

巨樹があるということは、その森が数世代にわたって安定的な原生状態をつづけてきたことを示しており、その場合、巨樹の樹齢は同種の平均樹齢の約二倍に達するという。

完成されたひとつの生態系は、破壊されると、容易にはとり戻せない。
巨樹の森の生態系を再生するには、少なくとも巨樹の林齢の倍以上の長い年月がかかってしまう。

もとより、悠久の時間が創りあげた巨樹の森は、野生動植物たちにとってかけがえのない生育環境。
そこには低木も下草も、ひとつの秩序の中に組み込まれ収まっているから。

その森から放たれる精気は野生そのものであり、代替わりを経ながら、そのままの状態を、環境さえ急変しなければ幾千年もつづけることができます。

今日、持続性という言葉が流行しているのは、おそらく人間活動が持続的ではなくなったせいもあります。
前世紀の経済成長と、環境悪化が合わせ鏡であったことを思い返してほしい。
私たちはなんとか今を生きようと、矛盾をかかえつつも懸命に生きつづけいます。

できることなら、ゆっくりと巨樹を眺め見る機会をもちたい。
野性をとり戻すために。

そして、この失われようとしている巨樹群の履歴をたどり、自分たちがかかわっていくべき対象として見つめ直してはどうだろう。
巨樹がもつ「命」や「時間」を考えることから、何かが生まれ出るような気がするのである。

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