辰野勇氏はアイガー登はんの成功で、自らの登山の技術に自信を持つようになりました。
そこで帰国後にまず行ったことは、国内初のロッククライミング学校を立ち上げることでした。
今ではモンベルが様々なアウトドア体験イベントや、講習を行っていることはよく知られています。
メーカーとして、アウトドアレジャーの普及で社会の環境意識を高めてもらうという目的のもと、自社商品を試してもらう場でもあり、直接ユーザーの声を聞くことができる場でもあります。
ユーザーの声を商品開発に活かしているモンベルの姿勢が、どのように形作られて、定着していったのでしょうか?
●学校運営の活動から、訳あって転職へ
欧州には、お金を払えば登山の技術や知識が、体系的に学べる登山学校があります。
しかも国立です。
学校にはプロのガイドもいて、山がビジネスとして成り立っていました。
日本では、そのような機関は無く、登山技術を学ぼうと思えば、大学や会社の山岳会に入るしかない。
そこで待っているのは、体育会系のしごきです。
辰野氏は山岳会特有のしごきが嫌いで、自由な雰囲気で教える学校を作りたいと思いました。
そこで、勤務先の登山用品店主催で開校にこぎつけたのです。
世間には、アイガー北壁を登った日本人が講師を務めることが話題となり、1期生には12人が集まりました。
1期生には、当時高校生だった真崎文明氏(現モンベル社長)もいました。
学校の内容は、室内講習から六甲の岩場での実技トレーニング、そして北アルプスの岩場へとステップアップするカリキュラムです。
その活動を通じて辰野氏は、28歳になったら独立して、自分で登山学校を始めたいと強く考えるようになりました。
ところが勤務先の先輩との口論から、登山用品店を辞める羽目になってしまう。
辰野氏が新婚旅行から帰ってきて3日目の出来事です。
家内に「会社を辞めるぞ」と告げると、彼女は驚きもせずに「あ、そうですか」とあっさりと了承しました。
それから2カ月間、新聞の求人広告を眺め就職先を探す毎日が続きました。
そんな中、辞めた登山用品店の常連客から中堅の総合商社の紹介を受け、面白そうだと入社します。
●商社では繊維事業部の営業部門に配属。 米国製の特殊素材に出合い、新素材を使った商品を企画するが採用されず独立を決意。
転職先では、スポーツ用品メーカーに生地を納めるのが仕事でした。
採算さえ合えば何をしても許される雰囲気があり、好きに仕事や企画に取り組みました。
当然、辰野氏は山に関連した商品に必要な繊維素材を、メーカーに売り込みました。
この商社の仕事を通じて、これまで見たことが無かった素材に出合います。
米デュポン社が開発した特殊繊維です。
例えば熱に強く消防服に使われているノーメックスや、強度があり防弾チョッキに使われているケブラーなどです。
今ではアウトドア用品には必ず使われている一般的な素材ですが、これらはまだ一般市場に紹介されていなかったのです。
辰野氏は、これら高機能素材をスポーツ用品メーカーに持ち込み、新商品の企画を提案しましたが、ほとんど受け入れてもらえませんでした。
そんなもどかしい思いから「自分でモノ作りをしよう」と思うようになり、28歳の誕生日に会社を退職。
翌日の1975年8月1日にモンベルを設立します。
会社の資本金は200万円でその全額を母親から借りたそうです。
本来は多少の資金を準備してから起業すべきですが、辰野氏は28歳で独立するという時間軸を大事にしました。
お金は知恵と努力で何とかなるが、時間とタイミングは補う手段がないと考えたのです。
モンベルは、フランス語で美しい山という意味です。
今では世界に拠点を置くグローバル企業へと成長をしているモンベルでも、最初の船出となった大阪市内の雑居ビルのオフィスはわずか7坪。従業員は辰野氏の1人で、机と電話が置かれているだけでした。
●モンベルの初仕事は買い物バッグ
登山用品メーカーとしてスタートしたが、登山関連商品の注文がなかなか来ない。
そこで、布団工場で作った寝袋のサンプルを持って売り歩きましたが、無名のモンベルの商品を取り扱ってくれる問屋はありません。
どうしようか、どうすれば商品を取り扱ってくれるだろうかと困っていた時、商社時代の元同僚から電話がありました。
スーパーの客に使ってもらえそうな買い物バッグの市場調査を、日用品メーカーと一緒にやらないかというのです。
もらったお金のうちモンベルの取り分は半分。ここまで来ると背に腹は代えられません。
ただし、依頼主の指示と想像だけで作り始めるのではなく、百貨店やスーパーに足を運び、素材や大きさ、価格などを調べました。
集めたデータを参考に提案した企画が通り、大手スーパーで扱ってもらえることになりました。
ところがモンベルは資金がない。
発注元に資金を負担してもらい、生地の仕入れや縫製は商社時代のつてを使いました。
モンベルが作った買い物バッグは、予想を上回る売れ行きでした。
納期を守るため、何日も徹夜で仕上げました。
そのお陰で、モンベルの初年度の売上高は1億6千万円に達しました。
ようやく会社の運転資金が生まれ、工場との取引実績もできたほか、繊維素材の仕入れルートも整いました。
●米デュポンとの取引開始から高機能素材を使った寝袋がヒット
モンベルとはいえども最初は、寝袋やザックなど自社商品はあまり売れなかった。
ところが、ある素材との出合いが、大きな転機になります。
それは米デュポン社の「ダクロン・ホロフィル」です。
この素材は、マカロニのような中空状のポリエステル繊維で、しなやかで小さい。しかも保温性が高く、寝袋の中綿としては画期的な新素材です。
さっそく米国から原綿を取り寄せ、試作品の開発に取り組みました。
素材のかさが高い特長を生かすために、製法には寝袋の生地に生綿を入れて縫い付ける和布団の技術を活用しました。
当時の寝袋といえば、化繊は重くてかさばり、羽毛はぬれると潰れて保温性が無くなる欠点がありました。
ダクロンで作った寝袋は軽量で温かいと、従来品の欠点を改善した新しい寝袋は登山家に受け入れられ、爆発的に売れました。
●日本で新素材を独占
これに気を良くして、次はデュポンの合成ゴム「ハイパロン」でコーティングした雨具を作りました。
従来の雨具といえば、重くてかさばるものしかなかったため、軽くて持ち運びやすい点が支持されました。
保温に優れたアクリル素材「オーロン」を国内で初めてニット状に編み上げた商品も開発しました。フリースの先駆けです。
辰野氏が幸運だったのは、世界有数のデュポンの新素材を、創業まもないモンベルが日本市場で独占的に取り扱うことができたことです。
デュポンの担当者が、モンベルのものづくりに対する熱意を理解してくれたからだとか。
当時は、米国でも先端素材を使った登山用品はありません。
濡れても保温性がある寝袋や、軽量の雨具は、雨の多い日本ならではのものづくりといえます。
※辰野勇(たつの・いさむ)1966年大阪府立和泉高校卒。高校時代に読んだ本に感銘を受けて登山家を志す。69年に当時世界最年少でアイガー北壁の登はんに成功。登山用品店などを経て、75年モンベル設立。大阪府出身。
※参考/日本経済新聞






