【日光例幣使街道】駕篭を揺すって袖の下をせびる日光社参例幣使の所業が「ゆすり」の語源!

中山道倉賀野から分岐した日光までの道筋に名をとどめたお公家勅使の傍迷惑道中顛末記【日光例幣使街道】

※この内容は1997年(平成9年)に「歴史と旅増刊号 古街道を旅する」に掲載されていたものを一部抜粋したものです。
現在とは状況が異なると思いますので、実際に歩かれる方は、充分に下調べをしてください。
そして歩きながら、その変化を楽しんでください。

日光例幣使街道

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ボロ儲けできた例幣使

群馬県高崎市倉賀野町で中山道と別れ、同県南部を東進して栃木県に入り、大平山南方で左折、北上し日光に至る「例幣使街道」と呼ばれている道路がある。

江戸時代、日光東照宮の四月例大祭に、毎年朝廷から派遣される奉幣勅使が通ったのでこの名がつけられた。

東照宮への勅使派遣は、社殿が竣工した元和三年(一六一七)が最初であるが、それから三十年後の正保三年(一六四六)からは幕府(三代将軍家光)の強い要請によって毎年派遣されるようになり、明治維新前年の慶応三年二八六七)まで二百二十一年間、一度も休むことなくこの奉幣行事はつづけられた。

幕府が勅使派遣を要請、というより強要した理由ははっきりしている。
要するに幕府の威光を示すために、朝廷を利用したのである。

日光東照宮は江戸幕府の開祖徳川家康が祭神である。
その東照大権現に、伊勢の天照大神を肥る天皇家に頭を下げさせれば、東照大権現がいかに偉いか、またその子孫の将軍家がいかに尊い存在であるか、を天下に示すことができる、と計算したのであった。

歴代天皇は、東照宮への勅使派遣を不快に思われ、後水尾、光格両帝などのように、気性の激しい方は激怒された。
朝廷にとって屈辱以外のなにものでもない、と受けとられたのであろう。

ところが、勅使に任命される公家のほうには、そんな話はまったくなく、むしろ逆に争って例幣使になりたがったといわれている。

その理由は簡単明瞭で、旅ができたからである。
江戸時代の公家には旅行の自由がなく、幕府は「禁中並公家諸法度」(正式名「禁中方御条目」)という規則で、朝廷・公家の行動をがんじがらめにしていた。

もう一つは、経済的理由から。
公家と呼ばれる天皇の直臣は、上・中・下級合わせて約百七十家あったが、頼朝が鎌倉に幕府を開いて武家政治をはじめてからそれまで持っていた所領を失い、貧窮した。
公家たちの待遇は、一部の上級者を除いて町奉行所の同心や諸藩の徒士、足軽並みになってしまった。
公家たちの貧窮は想像を絶し、酢のような酒を飲むとか、衣服に困って蚊屋を着ていた、などという伝説が生まれたほどである。

こんな貧乏公家にとって、例幣使になることは金品を稼ぐ千載一遇の好機であった。

京都で商品を仕入れ、それを旅の途中や江戸に出たときに売ったのである。一番儲かったのが呉服類だったという。

この〝商売″のうま味は、経費が安上がりで「公儀御用」とあって旅費はただ、荷物の運搬賃も各宿場の負担だったから、経費がほとんどゼロというポロ儲けの商売であった。

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